親の離婚後も続いた面会|私を縛った”ある事情”

はじめに

 

「〇〇大学なんて偏差値が低い。やめとけ」

「管理栄養士?なんでそんな仕事目指すんだよ」

 

――馬鹿にするように笑いながら、そう言われました。

 

そう言ってきたのは、

養育費を払わなかった“父”。

 

お金は出さない。

手も出さない。

でも、口だけは出してくる――。

 

 

私を縛った”ある事情”とは

母は、父からの暴力で心を病み、

ひとりで生活と子育てを必死にしてくれていました。

 

そんな母を見て、支えてきた私。

 

進路や生活について、勝手に意見してくる父。

 

私の進む道は私が決める。勝手に口出しするな。

――当時の私は心の中で叫んでいました。

 

レールを敷かれたくなかった。

子どもは親の願望を叶える道具ではない。

そう思った。

 

でも、言い返せなかった。

幼い頃に見た、怒鳴る父の姿がどうしても怖かった。

 

そして、なによりもーー

実は、父の代わりに父方の祖父が養育費を払ってくれていた。

そして「面会をやめるなら、養育費も打ち切る」ということを母方の祖父母に伝えていたことを後から知りました。

 

それを知ったとき、さらに「会いたくない」と言えなくなった。

「面会をやめたら、お金も出さない」

そんな言葉が、母方の祖父母に突きつけられていたと知ったとき、

子どもである私が、“条件”として扱われていた現実に胸が潰れそうになりました。

 

 

そして、父から夢をバカにされたときは、悔しさと怒りでいっぱいでした。

それでも、私は何も言えなかった。

 

怒りをエネルギーに変えた、あの一言

あのときの怒りが、

私の背中を強く押してくれました。

「絶対に管理栄養士になってやる」――その気持ちが支えになって、勉学に励むことができました。

 

そして、心の底から思いました。

私は、自分の子どもが夢を語ったときは、絶対に全力で応援する親になろう。

 

こうして反面教師にしていこうと思うたび、

「また学べることがあった」

「未来の自分が持つ家庭で、生かせることが増えた」

希望を捨てずに、前向きに考え続けることで、心を保っていました。

 

 

“親だから”は免罪符にはならない

 

母があんなにも壊れてしまったのに、

自分のしたことの重さを、父はわかっていたのか?

 

父と会うたびに、怒りと憎しみが湧いてくる。

でも、病気の母と向き合うのもまた、つらかった。

 

養育費は「子どもの権利」のはずなのに。

それすら果たさなかった人の言うことに、

私は従わなければいけないのか?

 

 

「親だから偉い」

「親だから従うべき」

――その考えは、危険だと思う。

 

親である前に、“一人の大人”としての責任があるはず。

 

まだ、子育ての経験はないですが、

子どもを育てるって、言葉も大切だけど、

それ以上に「行動」が伴ってこそだと思います。

 

私は、父のような親には絶対にならない。

 

パートナーに対しても、子どもに対しても、

「この人を、この子を、ちゃんと幸せにする」

――その覚悟と責任を持って、人生を歩んでいきたいです。

 

 

さいごに

親のくせに。

父のくせに。

 

あの頃は、そんな言葉が心の中で渦巻いて、怒り、悲しみ、憎しみ、悔しさ…色々な感情で押し潰されそうでした。

 

でも今ならわかります。

私が感じていた怒りも、悲しみも、憎しみも、悔しさも――全部、正当な感情だった。

 

そして、父はそんな状態になりたくてなったわけではないということ。

今は、怒りや憎しみを手放せています。

その理由についても、別の投稿で綴っていきますね。

 

でも“親だから”は、免罪符にはならない。

 

だからこそ私は、

「責任を果たすこと」「人と向き合うこと」を、この先の人生でもずっと考え続けていきたいと思います。

 

次回は、苦しみの連鎖をどう断ち切る?といったテーマで綴っていきたいと思います。

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もち元ヤングケアラー×管理栄養士
元ヤングケアラーで管理栄養士のもちです。 昔の私と同じように悩んでいる人の力になりたいと思い、ブログで私自身のヤングケアラーとしての経験を発信しています。 ヤングケアラーの存在をもっと多くの人に知ってほしいと思っています。 統合失調症の母のケアの経験と心と身体に栄養を届ける時短レシピをシェアしていきます。